2007年3月31日 (土)

一例・・・「週刊文春」コラムニスト・・・青木るえか× 小林信彦○ 批評家を批評する。

私はこのコラムで好き勝手に思う事を好き勝手言いたい放題してきたのだが、
実際、メディアに関わり、メディア側からそれなりの対価を頂戴しながら、
批評やコラムを記載するお仕事は並大抵の事ではないと思っている。
様々なシガラミがある世の中で、限られた字数でまっとうな意見を述べると
いうのは途方もない体力も精神力もいる。
私のコラムみたいにダラダラ駄文、長文を綴る事なんてもって外な世界なので
ある!

だが、素人だからできる事がある。
シガラミに囚われず、批評家やコラムニストを勝手に批評できると言う事だ。

私が毎週購入している「週刊文春」(私の地元では都心部から二日遅れの
土曜日発売というのが、このご時世で納得いかない事はあるのだが・・・)。

私が「週刊文春」を買う一番の理由は、この雑誌にコラム(「本音を申せば」)
を連載されている作家、『小林信彦』氏のピリっと心の奥底まで響く、一文を読む
ためだ。
(『中村うさぎ」女史と『辛酸なめ子』女史のコラムも好きだけど・・・)

『小林信彦』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BD%A6

氏はこのコラムにおいて映画やラジオの事を良く述べらえているのだが、今週の
4月5日号の一文「映画をどうえらぶか」は本当に素晴らしい!
映画に正しい観方など存在しないのは判っているのだが、氏の一文には本当に
興味深いものがある。
氏は映画ジャーナリズムに大きく関わっていた時期があるのだが、そこで知った
世界を”みみっちい”とバッサリと切り捨て、信頼する批評家を持つことが大切だが、
大事なのは批評家を信頼しない事と述べられている。逆に「疑ってかかった方が良い」
とさえ述べている。
そうかと思えば、自分は「映画については<趣味として書く>」などという矛盾する
逃げ道を作っていたり、結構、このおっさん一筋縄ではいかんなぁ・・という面白さ
ともに自分の言葉さえも読者に疑って頂いても一向に結構!・・・という氏の意思
(意志)が読み取れる。

対して、同じ「週刊文春」に「見もの聴きもの/テレビ健康診断」なるコラムを連載
している『青木るえか』女史・・・
私と同じ年なので応援したい気持ちはあるのだが・・・。

甘い!詰めが甘すぎる!

『青木るえか』のブログ「青木るえかの官能の部屋」
http://column.webdokusho.com/koushin/backnumber/aoki/2003/09/25/221000.php#top
(こちらもいささか的外れが多く・・・)

4月5日号では木村拓哉主演TBSテレビドラマ「華麗なる一族」の『あの肖像画』に
触れているのだが・・・。
皆さんが思っていた事を今更なぞってもという感じでダラダラとツッコミを入れ、
挙句にこの一文を・・・
『あの肖像画』で木村拓哉の未来を『おひょいさん』こと『藤村俊二』と言い切り
括った。
(それは別にしても『あの肖像画』をどういう経緯で誰が書いたのかぐらいはまず
きっちり調べましょう!)

『藤村俊二』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E4%BF%8A%E4%BA%8C

ここで重要なのは『あの肖像画』が『おひょいさん』に似てる言っているだけではない
という事だ。
ご本人としては『あの肖像画』の軽さを『おひょいさん』というキャラの軽さで例えた
かったのかもしれない。
切り口としては判らない気がしないでもないが、『青木るえか』には『おひょいさん』
という人の本当の立ち位置を理解できていないし、例え、女史が心の中では理解して
いたとしても文章では『おひょいさん』を単なるステレオタイプにでしか表現できて
いない。
『キムタク』に失礼というよりは『おひょいさん』に失礼な発言なのだと言う事を
ご本人はもちろん気が付いていないのだろう。
(・・・っていうか『週刊文春』担当編集者!気づけよ!)

『オヒョイさん』の軽さの裏側にある凄味が判らない『青木るえか』底の浅さ・・・。
これはある意味「週刊文春」自体、一部かなり底が浅くなっている事を示している。
(実際、最近は他の記事を読んでもその事は強く感じるようになった・・・。一昔前は
「週刊文春」と言えば地検特捜部なみの力量も感じる記事もあったのになぁ・・・)

正直言って、私と同じ年(40半ば)で、この程度の見識で、最前線メディアでこの
ような表現でしかコラムを書けないのに対価を頂いているという事自体が信じられ
ない・・・。(『作家の能力』と『コラムニストの能力』はまったく別だ!)

『小林信彦』氏は昭和の芸人についても自身のコラムで多く触れていらした。
氏が『おひょいさん』のことをこのコラムで触れたことはまだないと思うが、氏の見識
から昭和のラジオ・テレビ初期時代から、それこそ死ぬまでで芸能という世界で生き
残って来た人々を見詰めた数々の名コラム拝読した。

『青木るえか』女史よ!
少しは自身が連載している週刊誌のバックナンバーを読み返してみては?
まさか先日、ご逝去された『植木等』氏のことも「よくわかんなーい!?」なんて事
ないよね?

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2006年11月12日 (日)

TV番組「たけしの日本教育白書」で紹介された作家・司馬遼太郎「21世紀に生きる君たちへ」全文

2006年11月11日、フジテレビ(CX)系列で6時間に渡り生中継放映された・・・
「たけしの日本教育白書」
番組自体に対する所感といじめ、自殺問題については別途、機会を設けて
述べたいが、色んな意味で面白い番組であった。

この番組の最後に紹介された作家・司馬遼太郎先生が小学生の教科書向け
に渾身の心をこめて書き綴った「21世紀に生きる君たちへ」の全文を紹介し
たい。

「21世紀に生きる君たちへ」 作・司馬遼太郎

私は、歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて
存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と答える
ことにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たち
がいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと
思っている。この楽しさは・・・もし君たちさえそう望むなら・・・おすそ分けして
あげたいものである。

ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちが持っている大きなものがある。未来というもので
ある。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見
ることができないにちがいない。

君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でも
ある。

もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいい
だろう。「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、
どんな世の中でしょう。」そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。 ただ、私に言えること
がある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土
などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、
それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きる
ことができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
人間は、・・・くり返すようだが・・・自然によって生かされてきた。古代でも中世でも
自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の
人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつ
しんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
・・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。
21世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といって
いい。

同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、
あわせ考えた。つまり私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え
である。

このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある
意味では平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、
人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれた
ように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっ
ていくにちがいない。

「人間は、自分で生きているのではく、大きな存在によって生かされている。」と、
中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考え
ていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように、近ごろ再び、人間
たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、21世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、
自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるに
ちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、こう水の
ように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちの
しっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心に
おちいってはならない。人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、
構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う
仕組みということである。原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに
助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようなにはつくられていない。

このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。

 「いたわり」
 「他人の痛みを感じること」
 「やさしさ」

みな似たような言葉である。
この3つの言葉は、もともと1つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばなら
ないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と
感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりと
いう気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、21世紀は人類が仲よしで暮らせる時代
になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、
いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、
たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手には
やさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして”たのもしい君たち”
になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができ
ない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばなら
ない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているに感じた。

以上、全文終わり・・・。

司馬先生は21世紀に生きる子供たちだけでなく、私たち大人にも素晴らしい言葉を
残してくれた。
私たち人間は豊かな想像力で人の心の痛みや軋み、嘆きを感じ取れる『やさしさ、
いたわり』といった叡智を得ることが出来る。
しかしその叡智を獲得するために人間は日々想像力を巡らし、『訓練』を行わなけれ
ばならない。
人はみんな・・・ひとり。だが・・・たったひとりでは生きていけない。
ひとりづつの人間が、共に平和な社会を築き、その中で歩んでいくためには、自分
ではない誰かに対して思いやる気持ちをずっと持ち続けることが大切なのだ。
光ある未来は僕らの手に委ねられている事を決して忘れてはならない。

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2006年5月21日 (日)

世界同時公開・・・映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観たんだけどね・・・。

2006年5月20日土曜日、全世界公開初日に・・・
映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観た。

ダン・ブラウン原作本(越前敏弥:訳)はもちろん読んでいた・・・。

前々から思っていたのだが、自分が面白いと思って読んだ原作が映画化
された時って、その映画の評価よく判らなくなる事、みんなないか?
特に原作に比較的忠実であればある程・・・。

別に映画が面白くなかった訳ではないのだが、原作読んだ時点で既に
自分の脳内にイメージが出来上がるじゃない。
そんで、これ凄い面白れー本だ!ってなるじゃない・・・。

でも・・・これが本当に映像になって・・・。
それが自分の脳内イメージと違ったりすると、奇妙な違和感を覚えるわけよ。
もちろん映像の方が凄かったりするのだけど、もう、最初の原作読んだ時の
インパクトは完全に喪失しているわけよ。
また、自分の脳内の想像力が映像より勝ってると感じると、これはもうイン
パクトどころかまったく面白くなくなるわけよ。

そうすると・・・
「この映画、一体、一本の『映画』として・・・どうなんだろう?」
脳内ラビリンスに迷い込み、まっとうに映画の評価が出来なくなる。

今回がまったくそうだった。

原作も読まず、また、キリスト教世界観の背景とか、ダ・ヴィンチの画とか
まったく予備知識ない人が観て楽しめる作品なのだろうか?

フジTV「めざましTV」の軽部アナウンサーは予備知識無しに見たそうだが
かなり困惑した表情と言い回しだったなぁ。

しかし、今回一応サポートが付いていたから、まだマシだったが、いつまで
戸田のナッチャンに大作の字幕翻訳やらせる気だ。
もう勘弁してくれよー!

・・・ってここまで書いて、もう一度、ふとこの『映画』の事を考えた。
このブログの10行目(空白行含む)に、俺は・・・
「別に面白くなかった訳では・・・」
と書いた。
あれ!?違うぞー!なんか違うぞー!

この『映画』絶対に全然面白くねーぞ!
やっぱりそうだ!面白かったのは原作で『映画』では絶対ナイ!
この『映画』、超大作・超話題作ではあるが・・・

超駄作だ!

そう!それも映画史上稀に見る超駄作だ!

あれ!?今、映画のパンフレット観ていたら・・・
「シオン修道会(The Priory of Sion)」の説明が・・・。

『1956年にピエール・プランタールなる人物が3人の友人とイタズラで、
「シオン修道会」を設立した』

・・・としっかりとパンフレットに記載されているではないか!
なんじゃーコリャー!

5月20日土曜日9時からフジが放映してた特番でも「シオン修道会」に
ついて、もっともらしく説明していただが、まったくの嘘っパチじゃん!
「シオン修道会」のダビンチやニュートンら名立たる人物が記載されて
いた総長リストもデタラメなのだー!

まぁ、これは原作も間違っていたというころだがか・・・。

なんだかどうでもよくなってきたな。
人生における『貴重な時間』を『膨大に損した』ような気がして来た・・・。

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